2009年5月4日月曜日

気高きマ・クベ

吉川の信長 がマ・クベ の声とリンクして、楽しくてたまらん。
ちょっと立派になったマ・クベだ。

NHK大河 、謙信と信長の当時の位置関係に触れる前半期。
今や上杉本として国宝指定されたる洛中洛外図屏風 が
信長から謙信に贈られるくだりが盛り込まれていた。
劇中、謙信公と目される人物画の行幸図は
信長が故意に書き足させたものとしてドラマタイズされ、
青武者たちが掲旗の基、メンタリティーを高める進行上のプロセスとなる。



上杉家に伝わる『上杉家家什宝目録』、つまり上杉に伝わる家宝録は、
史学観点からの史料価値を認められない嫌いがあり、
美術史料としての価値さえも諸説否定の根拠にされえた。
つまり、己の権威を記す為に書かれた家宝録には信憑性を置けないと。


 『(謙信公)御書集』(天正二年三月の条)の抜粋がある。

 同年三月、尾州織田信長、為使介佐々木市兵衛遣(干)越府、
 被贈屏風一双、画工狩野源四郎貞信、入道永徳斎、
 永禄八年九月三日画之。花洛尽、被及書札

これは自家宝の記録を粉飾する必要も無い、
事実のみが数値をもって記録された部分。
天正2年(1574)3月、永徳が永禄8年(1565)に書き上げた
花洛尽の屏風を信長が贈ってきやがった。
 という記録。

将軍家(室町幕府)お抱え画師一族の棟梁、永徳が画の屏風を
たとえ幾多の修羅場を潜っていても、上洛に執着する一介の
田舎大名でしかなかった信長がなぜ持ち得たのか。
屏風画が仕上がった永禄八年、4ヶ月前の5月、
13代足利将軍 義輝が松永久秀に暗殺される。
棟梁の永徳が自ら手がける屏風は再上洛を遂げた13代将軍のオー
ダーだったことは疑い様も無い。
政局の急変にお家の興亡が懸かる舵取りを敏感にこなす棟梁が
行った営業ターゲットが信長であっても不思議は無い。

また、同資料は、屏風(上杉本)左隻に描かれる公方邸へ訪れる
大名行列の籠を根拠をもって謙信公と定め、
公方が謙信へ贈る為にオーダーした屏風と仮説を立てている。
つまり、オーダー主を無くした大作の屏風を渾身の思いで書き上げ、
次なるを信長と読み取った男はそれを呈する。
歳の頃同じくして、互いに上に就く立場となった主が無念の死を遂げる。
9年の後、その思いは屏風の本来の主となる男のもとへたどり着く。
画を仕上げた年月が併せて伝えられた異例の記述となった事を物語っている。

件の公方邸の門前では武人に守られた少年が闘鶏を見物している姿も描かれている。
義輝が13代将軍を継いだのは11歳だった。

 そこにはそう記されている。




足利義満(3代)から代々受け継がれ、途中から外部へ流出し
ことごとく値をつり上げて行った「つくもなす」 。
足利義輝(13代)を殺した松永久秀から信長が取り上げた頃には
九十九貫の騒ぎではない値で取引されていたという。
8代将軍以降足利の手に戻る事はなかったが、
この巡りも横隔膜をしっくり重くする。

せめて吉川信長、本能寺の火炎の中、
「あの『つくもなす』は本当に良いものなのだよ」と
片口上げて笑ってほしいものだ。
本能寺という名のギャン で茶会に乗り出す前に
『つくもなす』を秀吉に託していたなら、尚可。
吉川晃司のファンクラブ1年限定で入会しよう。






藤原全盛期以来の宗教芸術興隆。
戦国桃山時代の文化、芸術の隆盛を担ったバックグランドは
腐臭の如くを放つ、仏前の熟れた供物を思わせる。
荘厳から離脱した果ては金のしゃちほこだものな。
あっぱれ。






とりあえず、wikiにギャン のページがあったことが今回の収穫と、
吉川の素敵っぷりがどうしても云いたかっただけ。