2010年2月22日月曜日

2010年2月15日月曜日

Face To Face ちがい


やっときた。注文から2ヶ月。納期延期2回。
やっぱ手に入らないんだと諦めていたら、
突然「発送しましたメール」受信と、
数時間後に荷物も到着。

中学生が勉強しつつも、LPレコード20分おきに
ひっくり返してはヘビロしてたいっぴん。
今聴いても歌詞がちゃんと口をついてで来る。
脳みその神秘を感じる。

すてきだったな、80年代。
思えば、小林克也の好みをそのまま刷り込まれてたきもするが。
おかげで部屋にはmadonnaのburning upの12inchジャケットが飾られ、
かかっているのはThe Cure

そっからMusicLifeとFool'sMateをもとに好みが
派生してくからへんな中学生だ。
おかげでその後「レコード会社」の人たちと合コンしても
なんの話でも一緒に盛り上がれて、
合コンの趣旨を逸したおつきあいがもてた。
おもしろかった。

みなさん、お元気ですか・・・。


いつのまにか、全然違うバンドで同じ名前がいたらしく、
どこで探してもそれしかひっかかってこなくて、
マイノリティーな己の青春に切なくなっていたが。
アマゾン素敵。





2010年2月7日日曜日

ひもとく






 その絵から得たい情報は、本当はいったいなんなんだろう。ただ、絵解き、謎解きも、数値的確たる論拠があれば、あとあと付加価値となってかえってくるけど。

 その切り取られた一瞬が伝えているものを読み取る。その描写に至るプロセス、か、シチュエーションか。
 かつて、画師の筆遣いを追い呼吸を感じようを日がな硝子の前にへばりついた。その画材、依頼主やパトロン、取材と描写方法、画師の交流関係、趣向、風刺、垣間見えるものの読み解き方を教えられ、その羅列が、絵が持つドラマから、その時代の厚みがどんどん立体化して行くのにこころを奪われた。
 絵が秘めるプロセスの情報が多ければ多い程、その絵の求心力は大きい。傑作とうなづかれる所以がそれなんだと思う。

 作者の定義付けによって得られるのは、跳ね上がる取引価格か。。。そう考えれば、工房作に棟梁絵師の落款が押されるのは、単なる認証印。と言い切るのは、落款ないのは棟梁が認めてないボツかってことになるのでそれも危険だけど。(笑)

図録に挟まってた。よくなくなんなかったな。ちょっと嬉しい。


 大作なのに、情報量が少ない事で物議をかもすものも、着想の技術は出色なるをはばからない。しかし、作者を決定づける史料に乏しく、類似する技法との比較で、技術を模倣したどこぞの誰かが描いた稚拙なもの。と作品ごと全面否定をしてるかの誤解を招きかねない評価のしかたもある。護符もガチガチには張られれば抗いたくもなるもの。
 若冲の枡目画3点には既にそれぞれの定評がつきつつある。「白象群獣図」は3印が捺された紙が貼られており、留まる事の無い表現の巧みさに首を縦に振らない人はほぼいないと思われる。静岡県美「樹花鳥獣図屏風」こちらも真筆もしくは下絵とプロデュースの「工房作」として落ち着きを見せている。
 オーナーが真筆とはばからない「鳥獣花木図屏風」、一部の「無関係」説とオーナーの「自信」を措いて、「工房作」でいいんじゃないかー?というものすごくゆるーいスタンス。もはや、海外にいってしまった遠い「ヒト」であって、オーナーの寵愛は間違いない。当面は目くじら立てて追っかけ回してもしょうがない存在。火種となるのを予感して辻先生はあえてプライス氏にこの屏風を引き合わせたのだろうか。笑。当時、国費で買い上げる力がなかったこの国から、得体の知れない外国人に引き渡され、一双が散逸する憂き目を避ける事が出来た。それを何度も帰国公開させ、自身も老体鞭打ち来日しては、日本の湿った空気に触れてなお、艶やかな姿を見せる屏風を堪能する。おかげでこちらもこの10年、何回もお目にかかる事ができている。
 確かに3作品はそれぞれが論議を尽くすに足る個性を持ち合わせている。幕末明治期の日本画家が模索した過程のように、それぞれが、一人の画家の試みのうちであったとしても遜色無いという理解はできないのだろうか。魂が筆を拠り所に表現している世界は否定しようがない。


2010年2月3日水曜日

welcome 鬼

鬼にも理解と信頼を

本日の発見

すごいものみつけた。



確かに、何の予備知識もなくお山へ入るのは危険。
法螺貝の吹き方も多分、ただ勢い良く吹けばいいって
言うもんじゃないと思う。
棕櫚葉をかたどった天狗の扇を求めて参道の土産物屋をさまよったり。
胸のボンボンを手作りしてたり。
手引書がなければ大小さまざまな誤解をもったまま獣道に迷うことになる。

それでも本当に山伏修行に出ようと決意したときに
入門本が有るか調べたりするのだろうか。
もっとPRが必要だとおもう。

2010年1月30日土曜日

月例講演会「洛中洛外図屏風の系譜」


土偶展が2/21まで、洛中洛外図舟木本も同じなので、
それまでに平日にもう一回いかなくては。
土偶展の、がちゃぽんと、ぐっずコーナーがやりたい放題過ぎ。
誠に残念ながら、土偶が見たいわけではない。ぶきみ過ぎて苦手。



月例講演会「洛中洛外図屏風の系譜」
講師:国立歴史民俗博物館/総合研究大学院大学 教授 小島 道裕 氏

 洛中洛外図屏風(歴博甲本/重要文化財)による時代考証、
そこから推測する作成者(あまり重要視されていなそうなのは、史学の立場だからか)
依頼主。

描かれた事物の一つ一つをもとに、論証を進める。
地名や建物名が書かれた仮名文字の短冊。
屋敷と立地。
それらに込められた主題(意図か)。
これらの時代考証から、数千と描かれた2センチ程度の人々のなかに、
当時の権力層の人物を当てはめて行く。
活気溢れる都の縮図に必ず時の権力者が描かれている。
ストーリーの主人公がいる。ほんの一瞬の人の思惑と時の流れがある。
その主人公が、依頼主となるか、もしくは最初の持ち主。
狩野辻子(狩野の工房)が多少強引にも描かれていることも根拠に
狩野派の絵師によるものとされているため、
当然オーダー主は武家、公家、それら以上の階層ということになる。

絞り込まれて行く論旨。
今の私たちは、このワンシーンの末路をも知っている。



今回も歴史家のスタンスという、隣接とはいえ他科学の見識に学ぶ所が多く、特に洛中洛外図などは、先の若冲の例に習い、経済学市場史料の活用を思うままに出来たらまだまだどんどん面白い気付きがあるわけで。。。
感動再びもつかの間。
こちらの方向に的を絞るのなら、
細川氏の系譜が今度は必要なのか・・・
ガラシャさま。。。しかでてこないくらい、時代考証ぐちゃぐちゃなのに。

えろいむえっさいむ。。。
恵魯伊無閲挫意無。。。。




狩野辻子:狩野元信邸跡
上京区元誓願寺通小川東入北側










本日の特筆


鹿鶴図屏風 沈銓筆  清時代・乾隆4年(1739)



沈南蘋の花鳥画。
素通りできない作品に時間を費やす。



中国書画 歳寒三友と明末清初の書
本館特別1室 2010年1月2日(土)~1月31日(日)



以下覚え書き:
吉祥図:
松は不老不死・長寿
竹は君子・平安・子孫繁栄
梅は貴人・清客
蓮・水鳥・魚は豊かさ
牡丹は富貴
桃は長寿
葡萄・瓢箪・石榴は子孫繁栄
鳳凰は天下泰平
蝙蝠は福
「歳寒三友(さいかんさんゆう)」
厳寒の季節にも力強い緑を保つ松と竹
百花に先駆けて咲き、清らかな香を放つ梅
節度を守り不変の志をもつものの象徴




等伯展まであと、

如何に時間を取って見られるかが、最重要課題。


2010年2月23日(火)~2010年3月22日(月・休)

本日の東博

雅邦/寿老図
一段と西洋の薫りがする。
仙人かサンタか。
鶴のなついた感じが切なくてよい。


邦崖

本日の東博。
狩野邦崖の林和靖がいた。



まけないぞ

送信者 びぶりおてか


いまのところは。
最近我慢している自分がたのしい。
やればできる。と自分をほめる。
何時まで続くだろうか。


ときめきは止められないので、
念のため注文受付メールの登録はした。
頭の上には、躊躇する値段か?と悪態つく悪魔くんが2体。
阿吽でいるのみ。
そこに天使などいない。

「iPhoneはどうするの???」ってだれか言って。


2010年1月29日金曜日

本日のことば

第五章 芸術観賞

 自然と四季を歌い、高山を歌い、流水を歌えば、その古桐の追憶はすべて呼び起こされた。
再びやわらかい春風はその枝の間に戯れた。
峡谷をおどりながら下ってゆく若い奔流は、蕾の花に向かって笑った。
たちまちきこえるのは夢のごとき、数知れぬ夏の虫の声、雨のばらばらと和らかに落ちる音、
悲し気な郭公の声。
聞け!虎うそぶいて、谷これにこたえている。
秋の曲を奏すれば、物さびしき夜に、剣の如き鋭い月は、霜のおく草葉に輝いている。
冬の曲となれば、行く空に白鳥の群れ渦巻き、霰はぱらぱらと、嬉々として枝を打つ。
 次に伯牙は調べを変えて恋を歌った。
森は深く思案にくれている熱烈な恋人のようにゆらいだ。
空にはつんとした乙女のような冴えた美しい雲が飛んだ。
しかし失望のような黒い長い影を地上にひいて過ぎて行った。
 さらに調べを変えて戦いを歌い、剣戟の響きや駒の蹄の音を歌った。
すると琴中に竜門の暴風雨起こり、竜は電光に乗じ、轟々たる雪崩は山々に鳴り渡った。


 傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。
真の芸術は伯牙であり、我々は竜門の琴である。
美の霊手に触れる時、わが心琴の神秘の弦は目ざめ、われわれはこれに呼応して振動し、肉をおどらせ血をわかす。
心は心と語る。
無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。
名匠はわれわれの知らぬ調べを呼び起こす。
長く忘れていた追憶はすべて新しい意味を持って帰って来る。
恐怖におさえられていた希望や、認める勇気のなかった憧憬が、栄えばえと現れて来る。
わが心は画家の絵の具を塗る画布である。
その色素はわれわれの感情である。
その濃淡の配合は、喜びの光であり悲しみの影である。
われわれは傑作によって存するごとく、傑作はわれわれによって存する。



 芸術において、類縁の精神が合一するほど世にも神聖なものはない。
彼は永劫を瞥見するけれども、目には舌なく、言葉をもってその喜びを声に表すことはできない。
彼の精神は、物質の束縛を脱して、物のリズムによって動いている。
かくのごとくして芸術は宗教に近づいて人間をけだかくするものである。
これによってこそ傑作は神聖なものとなるのである。

 なお一つ一般に誤っていることは、美術と考古学の混同である。
古物から生ずる崇敬の念は、人間の性質の中で最もよい特性であって、いっそうこれを涵養したいものである。
古の大家は、後世啓発の道を開いたことに対して、当然尊敬を浮くべきである。
彼等は幾世紀の批評を経て、無傷のままわれわれの時代に至り、
今もなお光栄を荷のうているというだけで、われわれは彼等に敬意を表している。
が、もしわれわれが、彼等の偉業を単に年代の古きゆえをもって尊んだとしたならば、それは実におろかなことである。
しかもわれわれは、自己の歴史的同情心が、審美的眼識を無視するままに許している。
美術家が無事に墳墓におさめられると、われわれは賞賛の花を手向けるのである。

同時代美術の要求は、人生の重要な計画において、いかなるものにもこれを無視することはできない。
今日の美術は真にわれわれに属するものである。
これを罵倒するときは、ただ自己を罵倒するのである。
今の世に美術無し、というが、これが責めを負うべきものはたれぞ。
古人に対しては、熱狂的に嘆称するにもかかわらず、自己の可能性にはほとんど注意しないことは恥ずべきことである。
世に認められようとして苦しむ美術家たち、冷たき軽悔の影に逡巡している疲れた人々よ!
などというが、この自己本位の世の中に、われわれは彼等に対してどれほどの鼓舞激励を与えているか。
過去がわれらの文化の貧弱を哀れむのも道理である。
未来はわが美術の貧弱を笑うであろう。
われわれは人生の美しいものを破壊することによって美術を破壊している。
ねがわくは、ある大妖術者が出現して、社会の幹から、
天才の手に触れて初めて鳴り渡る弦をそなえた大琴を作らんことを祈る。

the book of tea / Kakuzo Okakura

2010年1月27日水曜日

梅もほころび始めれば


建長寺さんは半僧坊へ、
ご祈祷と普段は拝観できない塔頭の見学に。
鎌倉観光協会主催のイベントへ参加。
とても良い日でした。



正統院の梅が青空バックに可愛らしく。



寒さを忘れさせる姿がありました。


同行の方が杉の木立を望み、
悲鳴まじりに「赤くなってる〜」
飛散開始の2月は目の前だった。






2010年1月24日日曜日

2010年1月23日土曜日

御所も上から眺められる時代になりました。

@大手町カンファレンスホール。
18F
三の丸から武道館までの「東京」の眺め。

ご城下にて、
愛宕信仰と将軍地蔵について、八木先生の講演会。
早送りに歴史の流れを見るような時間を経て…、
ああ、帰ったらまた吾妻鏡だ…。



総本宮 愛宕神社



2010年1月20日水曜日